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Der Untergang  「ヒトラー 最期の12日間」
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 新宿の映画館、ナイトショーで「ヒトラー」を観てきた。

 ナチズムをどう扱うか?どう捉えるかという問題は戦後ドイツにとって極めて重要な課題であった。非ナチ化は徹底的に行なわれ、カギ十字の形に近いバッジも批判されたほどであった。しかし非ナチ化によって、ナチズムを比較不可能な人道的・政治的犯罪として捉え、ヒトラーとナチズムは狂気として扱われる場合が多かった。狂気の独裁者・ヒトラーは歴史的にはタブー視されてきた。その結果、ヒトラー個人の像について客観的に考察した研究はそれほど多くはない。この映画は、ヒトラーの最期の12日間、地下の指令本部(通称、狼の巣)でのヒトラーとその側近を中心に雇われた女性秘書の視点を通して描かれた映画であり、人間ヒトラーの像に迫った作品である。

 ナチズム研究は、85年のヴァイツゼッカー演説(有名な5.8、荒れ野の40年の演説)に代表される「歴史家論争」を契機に、ジャーナリズムに舞台を移し、大きな論争になった頃から少し様相を変えて来た。ナチズムを相対化する修正主義者・ネオ保守派と、比較不可能な政治的犯罪とするリベラル左派のナチズム解釈をめぐる論争が起きた。(これは96年のゴールドハーゲン論争に間接的につながった。)「ナチズムの罪を相対化・軽減しようとする」ネオ保守派の中でヒトラー個人に焦点を当て、独裁者ヒトラーの政治的役割がナチズムに決定的に重要であり、ヒトラーの心理的側面にも注目し、評伝的研究を行なった人物に、ヨアヒム・フェストがいる。彼こそが、映画の原作となった”Der Untergang Hitler und das Ende des 3. Reichs”『ヒトラー 最期の12日間』の作者である。

 政治史研究でも著名な作者、保守的新聞『フランクフルター・アルゲマイネ紙』の編集者であるヨアヒム・フェストの著作が原作であるということは、恥ずかしながら映画が終了後のスタッフ一同の名前が出てきた時に初めて知った。あれ?ヨアヒム・フェストか?彼は新保守派の一部であり、修正主義に近い位置にいたからだ。これを知って私のこの映画に対する見方が少し変わった。つまり政治的には、修正主義的な捉え方とも言える。この映画はドイツでは記録的な集客を呼んだ空前のヒット映画となり、世論の多くがこの映画のヒトラーの描き方に賛成していた。しかし、リベラル左派の論壇やフランスの『ル・モンド』などからは痛烈に批判を受けた映画である。

 さて映画では、主演のヒトラーを、ブルーノ・ガンツが見事に演じていた。手の震えや、演説の過剰なオーバーアクション。(ゲッベルスの話もヒトラーに良く似ているが、ヒトラー演説を演出した宣伝相だけあって、これは偶然ではない。)そしてバイエルン訛り。ミュンヘンがミュンシェンと適切に訛っていた。ドイツ語初心者には聞きにくい発音だ。他の出演者のドイツ語は映画が進むにつれ慣れてきて結構判別できるようになったが、ヒトラーの発音は最期まで難しかった。ウイーンやミュンシエンには住めない。もっともベルリンはベルリンで低地ドイツ語で訛りがあるのだが・・

 ブルーノ・ガンツは身長が低い。しかしヒトラーは175cm(170cmとの説もある)で、当時のドイツ人にしても中背かやや高いほどである。ゲッベルスも実際は165cmと小柄だったが、役者は他の軍人よりも頭一つ背の高い人だった。ヒトラーの顔に似ていたこと、演技能力を変われて(ゲッベルスも熱演だった)の採用だったと思うが、(映画での両者の身長のギャップ)ディテイルが気になる私は最期まで背の低いヒトラー(女性と同じくらいだった)と猫背のヒトラーが妙に寂しげに感じられた。

 思うに、地下の総司令部の彼の孤独さは、青年時代の孤独な放浪生活や、政治犯としての懲役時代につながっているのではないだろうか?側近に囲まれながらも、エファ・ブラウンや忠実な秘書を伴いながらも彼に指導者としての孤独を感じた。彼が孤独だったのは、指導者、独裁者になったからでもあった。必然的な孤独(=Verlassenheit)である。

 映画でそれぞれの人間模様が極めて巧みに描かれている。地下司令部での制御能力を失い、崩壊寸前、麻痺状態に陥っている軍部と、地上のベルリンの市街戦の混乱、SSの残虐行為と勇敢に戦う少年兵は対照的な光景であった。権力と保身に走る醜悪な指導層と、地下室で繰り広げられる狂喜乱舞のパーティー。ベルリン陥落直前になお忠誠を誓う側近や少年兵の無知の涙。トーマス・マン『ファウスト博士』の「ああ、ドイツよ、お前は滅んでいく」という一節があるが、その台詞を思い出した。国が滅び崩壊する光景とはこのようなものであろう。

 一方、人間ヒトラーは意外な私生活の一面が描かれている。愛犬を可愛がり、妻エファを愛し、秘書にも実に優しい姿がそこで演じられていた。最期の晩餐で、調理した女性に、涙をながしながら謝意を述べていたシーンは印象的である。逆に、最期まで、首都ゲルマニアの建設と戦況の巻き返しを画策していたシーンでの部下を罵倒し絶叫するシーンは極めて対照的である。
 人間ヒトラーの両面性、両義的な性質がここで描かれている。ヒトラーを人間として真摯に捉えなおそうとした視点は、歴史学者特有の迫力ある筆致による部分が大きい。狂気の動と日常の静が交互に描写されている。
 軍需大臣アルベルト・シュペーアが後日ヒトラーについて、「私は以前より、もっと分からなくなってきた。考えれば考えるほど難しくなるばかりで、彼のことはさらに理解できなくなった。」と語っている。
妻エファも、ずっと一緒にいたのに彼のことが最期までよく分からなかった、と語っている。

 狂気のホロコースト指導者、第三帝国指導者の英雄像。放浪時代の孤独な青年。勇敢な兵長。天才的なデマゴーグ。指導者としての孤独で寂しげな姿。側近に対する優しい心配り。少年兵への温かい励まし。そして妻への愛。これら全てが幻ではなく、虚像ではなく、全てが人間ヒトラーをあらわすものではないのだろうか?多面的な人格。これは全てヒトラーの真実なのではないだろうか。全てに偽りはなかったのではないだろうか?
 ラストシーンで、戦後無事生還し、つい最近まで在命だった元秘書が「彼の残酷さがわからなかった」と語っていたが、彼女の見方も間違いではなかったはずだ。但し、彼女は私生活では優しいヒトラーしか見れなかったのである。

 すなわちこの映画では「人間とは何か?」という問題について、ヒトラーの実像を描くことと、第三帝国の崩壊を描くことを通じて、描写しようとしているのではないだろうか。人間存在とは決して一面的で一元的で、ナイーブなものではない。われわれはお互いの人格について、分かり合っているようで分かり合っていないのかもしれない。それゆえに、個々の人間を適切に分析していく必要があるだろう。

 滅亡(=Der Untergang)がこの映画の本題である。崩壊の瞬間の人間の姿、あり方は様々に描かれている。崩壊と滅亡の瞬間の、人間の生き方にこそ、人間の真の姿、人間の尊厳が問われているように思えた。
 ラストで、秘書と少年は自転車で焦土と化した首都ベルリンを無事脱出していく。「滅亡」は終わりであるが、終わりは始まりをも意味する。滅亡の後の始まりが、ラストシーンで暗示されている。その光景が戦後ドイツの再建につながるのである。第三帝国という虚像は滅亡した。しかし、人間は国家や指導者の滅亡に関係なく、生きていくものである。国家の滅亡を超えて生きていけるのは人間である。滅亡のあとには、新たな「始まり」があるのだ。






 

 
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2005/10/31 9:31 AM posted by: 私的考察
色んな意味で“スゴイ”映画だと思います。 タブーとされていたアドルフ・ヒトラーおよびナチ党を真っ正面から捉え、それをドイツ政府のバックアップを受けての製作。言うなればドイツによるヒトラー解釈の公式見解を世界に映画というメディアを通して発表したようなも